病院でふと思う。

今日病院で小さな子供がはしゃいでいた。

多分3歳くらい。

自分の子供じゃないのに愛おしい。

 

 

最近の私は生きている理由はわからず、それでも生きていた。

 

大人になってやりたい仕事について仕事楽しめるのかなとかいう不安もあった。

 

大人になって愛する人と結婚して子供を授かったなら

その子のためだけに働けるかなってふと思った。

 

仕事がもしつまらなくてもその子供の笑顔を見るだけのために働けると感じた。

人生費やしてもいいかなって。

 

きっと相当の親バカになるんだろうけど。

 

それでもいい。

 

 

いまは多分未来の自分のためにあるんだとふと思う。

 

そういう子供を支えられるように今があるのかって。

ちゃんと心から愛せるパートナーに出会うために今があるのかなって。

 

 

先は長いなって思うけど、今まで生きてきた人生より短い時間でそんな瞬間が訪れるって考えるとだいぶはやい。

 

 

怖いような気もするけど、私は自分の子供の、パートナーの笑顔のために何かをしたいと感じる。

 

今は、だからよくわかんない毎日でもぐっと我慢。

 

誰かのために頑張ろって思える日、きっとくるから。

 

 

 

 

 

おしまい

下りエスカレーター

私は昔から変化を嫌わない人物だったはずだった。

中学から高校に進んだ時のあのわくわく感は今でもはっきりと覚えている。

正直言って中学だって大好きだった。

でも高校になぜかきらきら光るような輝きがあると信じていた。

 

なのに大学に進んだ今、この変化を恐れている私がいる。

環境が変わるのが怖すぎる。

場所は変わっているのに考え方とか気持ちは高校のときのまま、別につまんないわけじゃないんだけど。

未だに高校の同じ部活の仲間と一緒にいたいし時間を過ごしたい、遊びたい。

高校で恋した人を思い続けているし。

高校の失敗を引きずっているし。

自分自身変わっていない。

 

周りの環境はめまぐるしく変わっていて、すべてが本当に不安。

 

残りの人生すべて高校で費やしていいんじゃないかと思う。

 

就職でまた環境が変わるのは怖いし。

これからまだまだ変わることだらけ。

変化は避けられない。

 

なのにそれを怖がる自分。

なさけない。

かわりたい。

だけどやっぱ高校が大好き。

みんなの笑顔とか。

懐かしい思い出とか。

高ぶる感情とか。

談笑した時間とか。

 

 

 

 

 

かけがえのないもの。

 

それと変化を嫌うのは違うってわかってるけど。

やっぱりこわいな。

精神は高校生のまま。

中身は変わらない。

 

 

 

なんか人脈もこれ以上いらないんじゃないかと思ってしまう。

 

 

高校では嫌だと思うこともあったけど、得られたものが大きすぎて比にならない。

 

一つ一つが大きすぎる。

仲間も思い出も大切な宝物。

宝物って言うともう終わったものっぽい。

宝物というかまだ今の話のような気がする。

 

この気持ちは何なんだろう。

 

 

みんなほんとに好き。

 

 

いい加減にしなよ自分。

 

時の流れには逆らえないし、思い通りにならないこと、諦めなきゃいけないことだってあるよ。

 

 

 

自分から気持ちを変えないと。

 

それでもやっぱり変わらな気持ち。

 

未だに止まり続けている自分の中の時間。

 

 

 

もっと強くなりなよ自分。

別に後ろ向いてるわけじゃないけど、

前に向かって歩いてない。

むしろ下りエスカレーターみたいに僕を過去に押し戻していく。

 

 

 

 

忘れたいわけじゃない。

 

 

 

大好きな部活のみんな

クラスの子たち

先輩

後輩

片思いの相手

 

 

 

 

 

でも、進まないと、このままじゃだめ。

 

中途半端。

何もできない。

 

もったいない今。

過去を回想するだけではもったいなすぎる。

 

 

 

 

 

あたらしくなれ自分。

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱ無理そうだった。

 

 

 

 

うーん。大変。厳しいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

おしまい

日々

私には、ストレスの発散法がないのだ。

みんなひとつは持っているようだ。

音楽を聞くだの、ひたすら寝るだの。

私にはそんなことでは自分にふりかかったいらいらやフラストレーションを取り除けない。

まぁ特に今イライラしているというわけではないがね。

趣味も特にない私には、この毎日はもったいなさすぎる。

しかし、それでも眠い、忙しいと言って時間を求めるのだから、なんとも矛盾している。

 

 

 

 

 

 

おしまい

なんのために生まれたのか

最近、私事で少しずつ忙しくなってきて、睡眠時間が削られ、時間がほしい、暇がほしいと感じている私。

 

しかしながら、ついこないだまでは暇が多すぎて、何をしたいのかわからない、暇はやだという私がいた。

 

なんと自分勝手なのだ、、、、。

 

果たして私はどちらを望んでいるのだろう。

 

そしてどういう私でいればいいのか。

 

『どんな自分になりたいのか 』という明確な目標が定まっていない今の私では、どんな状況にいても葛藤するのかもしれない。

 

今までの人生では、このような思考に陥ることはなかった。

 

自分としての目標を考えることを、忙しさで隠していたから。

 

忙しさというフタが外れない時はそのフタを外すことに葛藤しそれが目標だと勘違いして 

 

だからこうして忙しさというフタが外れた時、中にある本質的ななりたい自分という問題にぶち当たり葛藤し、悩むのだろう。

 

こうしたことに私は気づいたのにもかかわらず、みずからまた新しいフタを探し、忙しさで自分を満たしたような感覚に浸ろうとしている。

 

なりたい自分とは何なのだろう。

生まれた時に与えられた使命は何なのか。

 

夢を叶えることか。

外国で活躍することか。

誰かの助けになることか。

ただ今を楽しく生きることか。

好きな子と結ばれることか。

勉強でトップを取ることか。

親に恩返しすることか。

友人を大切にすることか。

自分の理想を追い求めることか。

悩み抜いて生きていくことか。

なにもないのか。

 

まったくわからない。難題だ。

 

 

やっぱり忙しさでフタをしてまた今日も、意味があるのかないのかわからない日を過ごしていく私なのであった。

 

 

おしまい

 

 

 

 

 

甘え

可能性がないという言葉、ほんとにないのだろうか。

もしあなたが海外で働きたいと感じた時、そういう環境がないから、英語が苦手だしそんな可能性あるわけ無いかって感じたら、それは可能性がないという言葉に甘えている。

どんな空想や夢だって少なからず可能性はあるはず。

天気のように私達が何か行動を起こしても変わらない現実だってありますが、そのような可能性は行動によってあげることができるはず。

前者の例ならまず必死に英語を勉強し、そのような環境を自力で探し出す、という過程を踏めば、可能性はみるみるうちに上がる。

まぁその努力が大変なのですが。

自分も実際その言葉に甘えているし、その甘えによって多くの可能性を捨てている。

 

 

だからこそ、明日こそは可能性を捨てないで自ら可能性をあげることを考えるポジティブモンスターとして生きていきたいわけである。

 

おしまい

技術

人間の技術ってすごい。

私達は毎日当たり前のように朝目覚まし時計で起きて、携帯で連絡を取り、炊飯器でご飯を炊き、冷蔵庫の飲み物をだし、着替えて電車で出かける。

その間にはテレビも見て、電車の改札を通って、、、、、、約100年日露戦争で戦っていた人々はこんな未来を予想していただろうか。

人間て本当にすごい。そしてこれからもすごいものを作り出すでしょう、いま映画で見ているような世界が現実になるはず。

そう考えると何だか、つまらなくてくだらない毎日がワクワクしてくるようなきがする

 

自分もその何か、技術の分野でなくても人をワクワクさせられるような人間になりたいたいものだ。

 

おしまい

タイミング

最近私事でいろいろあった結果、この世の中って半分はタイミングで決まってしまうのではないかと感じた。

たとえば、あなたが学生時代何年間か付き合った彼、彼女と出会った時期が社会人ならば結婚していたかもしれない。

出会った時期が悪かったから何年かして別れることになってしまった、と考えることもできるはず。

あとは人を好きになるタイミングとか

今じゃなくてもっと早く好きになっていたら、もっと早く出会っていたら付き合えていたかもしれない、思いが通じていたかもしれないとか、、、

ちょっと恋愛の話が多いのは私の近くで起きていることが恋愛関連なので。

 

 

 

ただ言いたいのは少なからず、人間はタイミングに支配されている気がするということ。

 

 

まぁそれすらも運命と考えればそれはそうなのですが、なにか時の流れ、タイミングに逆らえない無力感に襲われる。

 

 

 

おしまい